井上ジョー "桜坂"
翻訳家 井上ジョーの実力はいかに?
"ハロハログッバイ" が NHK を席巻していた2010年、とある大物ミュージシャンとのコラボが持ち上がりました。
(上のリンクはソニーのアナウンスです)
皆さんはこのお二人をご存じでしょうか? 80~90年代のハードロックシーンをにぎわせたエリック・マーティンと、二度の全米トップを誇るデビー・ギブソンのふたりを。
2010年11月3日リリースの 'Mr. Vocalist 3' と 'Ms. Vocalist'。このアルバムのコンセプトは、日本人アーティストの人気曲から、マーティンさんが女性ボーカルのものを、ギブソンさんが男性ボーカルのものを英語でカバーする、というものです。多分非公式なので紹介はしませんが、ニコニコ動画やYouTubeでフルで聞けます。多分非公式ですが。
ジョーさんは "地上の星" (中島みゆき) 、"桜坂" (福山雅治) の翻訳を任されました(リンクから英語カバーを試聴できます)。このお二人はジョーさんと同じくソニー所属なので、内側でのコネがあるんでしょう。これ以前にもキャロライン・アモーレさんやメイヤさんと翻訳で共演していましたが、こうしてまた箔が付きましたね。また、同アルバムではギブソンさんのヒット曲 "Lost in Your Eyes" (←原曲リンク)の日本語セルフカバーも披露されていて、こちらもジョーさんが英詞を日本語へ翻訳しています。
さて、今回は "桜坂" を取り上げて、オリジナルの歌詞とジョーさんが訳した歌詞を比較・鑑賞してみましょう。
まずは、オリジナルから:
"桜坂" by 福山雅治
君よずっと幸せに
風にそっと歌うよ
愛は今も 愛のままで
揺れる木漏れ日 薫る桜坂
悲しみに似た 薄紅色
君がいた 恋をしていた
君じゃなきゃダメなのに
ひとつになれず
愛と知っていたのに
春はやって来るのに
夢は今も 夢のままで
頬にくちづけ 染まる桜坂
抱きしめたい気持ちでいっぱいだった
この街で ずっとふたりで
無邪気すぎた約束
涙に変わる
愛と知っていたのに
花はそっと咲くのに
君は今も 君のままで
逢えないけど
季節は変わるけど
愛しき人
君だけが わかってくれた
憧れを追いかけて
僕は生きるよ
愛と知っていたのに
春はやってくるのに
夢は今も 夢のままで
君よずっと幸せに
風にそっと歌うよ
愛は今も 愛のままで
いやぁ良い歌だなぁとしみじみ感じます。そして、この名曲をジョーさんが英訳したものがこちらです。
"桜坂" by デビー・ギブソン translated by 井上ジョー
With all my heart I wish you the best
As I sing to this gentle wind
Love is still love
It keeps going on
It remains
Light is streaming through the leaves
The scent of cherry blossom hill
Crimson fades away
As if to take place of sorrow
You were by my side
I was in love with you
Even though you are one and the only
There was nothing I could do
Even though I knew that this was love
Though I can tell spring is in the air
All the things I have dreamt
Will remain as a dream
A simple kiss on the cheek
Color the cherry blossom hill
I wanted to hold you close in my arms
Wanted to hold you tight
The city we live in
The promise we had made
We could have stayed together forever
But everything turned into tears
Even though I knew that this was love
Flowers will bloom without making a sound
You will stay the same
You are who you were back then
We can't see each other
Changing of the seasons
My heart goes out to you
Beautiful moment
Beautiful sea
Beautiful time・・・
You were the only
One to ever understand
I will follow all that I admire
I'll keep walking down the road
Even though I knew that this was love
Though I can tell spring is in the air
All the things I have dreamt
Will remain as a dream
I wish you the best
As I sing to this gentle wind
Love is still love
It keeps going on
It remains
うむ、いい歌です。英語版の歌詞は、日本語詞にかなり忠実になっていますね。英詞では日本語のフローに乗りづらいのかなぁという部分も見受けられますが、歌詞のエッセンスを英語圏に広げるのに大いに貢献してるんではないでしょうか。
結構有名な話ですが、歌詞に出てくる「木漏れ日」という単語は日本にしか存在しない概念なんですってね。なのでびしっと来る翻訳をすることはかなり難しいわけです。ジョーさんは、揺れる木漏れ日/薫る桜坂 という詞を Light is streaming through the leaves / The scent of cherry blossom hill と訳しています。ニュアンスは異なれど、思い描くことのできる景色は似ています。
ですが、少しみなさんにも考えていただきたいのですが、日本語詞のこの二行からは、ここにある15文字以上の情景を得ることができませんか? うららかな春の日、穏やかで優しい春風に吹かれる満開の桜。そうしたほんわかとしたあたたかな情景の中で、このフレーズに続いて明かされる語り手の心情は一転して悲愴に暮れています。そうした悲しい感情を導くための振りとなる情景描写だと思うんですが、必ずしもそこを表現出来てはいません(私の解釈に沿っていないだけ、といえばそうなんですけど)。
また、薄紅色 (さくら色と同義) を crimson (クリムゾン、結構明るめの赤) と訳しているポイントも注目すべきでしょう。日本語の方が色彩表現が豊かだ、と言いたいわけではなくて、やはり言語によって色の見え方や切り取り方、さらにはそれがはらむ意味というものが違ってくるんだなぁという感慨を抱きました。
とはいえ、ジョーさんは私が指摘したのとは違うポイントを重視して翻訳を行ったんだろうということにも言及しておきましょう。歌詞カードの対訳をすることと日本語詞を英詞にすることとは全く違う作業なので、するべきこととしてはならないこと、できることとできないことがあるわけです。我々リスナーがすることは、原点と翻訳物を批判的に読み比べて、どういう意図があるのかに思いをはせることです。
翻訳家は限られた条件の中で仕事をしなければなりません。そんな中で、ギブソンさんのオリジナル楽曲まで翻訳を任されたということは、この "桜坂" の翻訳がかなり評価されたということではないでしょうか。当時25歳のジョーさんのこの経験は、Magic! や Babymetal とのお仕事にもつながっていると思います。キャリアの広がりの分岐点となった一作でした。