井上ジョーのMV「幻」についての考察 pt.3

前回の記事はこちらです。

 

sean-s.hatenablog.com

 

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これから始まるCメロこそが、このMVを難解にしている部分であり、もっとも意義深い部分です。

 

(今回は3:49-4:14を取り扱います。)

 

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悲痛な顔からカットが変わり、制服を着た小学生くらいの男の子が公園でうずくまっている光景が映し出されます。嬉しそうに手を振る少年は、仕事帰りと思しきスーツ姿の男性と手をつないで歩いていきます。
次に映るのは暗い部屋。ランドセルを背負った女の子がダイニングテーブルの上のメモを手に取ります。

「きょうもおそくなります。
 あたためて食べてね。
         ママより」

少女は明かりを一つだけつけた薄暗い部屋で一人、テレビを見ながらご飯を食べています。
次には白と黒の湯呑みにお茶をいれる老婆の姿。黒の湯呑みを向かいの席 ーーおそらくそこに人が座ることはもうありませんーー に差し出し、自身はお茶を口にします。
そして最後に映されるのは、バースデーカードを手に持ち嗚咽する、先ほどの女性の泣き顔です。
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ここで登場した三人ー少年、少女、老婆ーにはまったく接点がないし、MVの本筋とも関係しそうにはないですよね。ですが私が思うに、彼らが象徴しているのは「悲しみの中にある温かさ」ではないでしょうか。詳しく説明しますよ。
少年は、元気溌剌という感じですね。腕をいっぱいに伸ばして振るその姿はとてもかわいらしい。その少年と手をつなぐスーツの男性は父親でしょうね。その後ろ姿からは父子の間の愛情がひしひしと感じられます。ただ一つ気になるのは、少年が映し出された瞬間です。彼はひとり寒空の下、公園でうずくまっているんです。友達と遊んでいるでもなく、文字通り首を長くして父親を待っているでもなく、よく見ると悲しげにも思える風情でうずくまっているんです。もしかすると彼は、学校でうまくやれていないのでしょうか。まだ年少であることから考えて、何か陰湿なものにあっているわけではなくて単純にシャイだったりということだとは思うのですが。そうして公園で一人佇むうちに、父親と偶然に遭遇し、手をつないで一緒に帰るんです。少年にとっては、父親だけが気を許せる存在なんでしょうね。
対象的に、少女からははじめからとても暗い印象を受けます。「暗い部屋で一人、テレビはつけたまま」とは、The Yellow Monkey の名曲 ’’Jam’’ の歌いだしです(それに続くのは「僕は震えている、何か始めようと」です。なんとも文学的ですよね)。話を元に戻すと、そんな女の子からも、私は温かみを感じます。それは、母親からの書き置きにあります。なんと悲しく、それでも温かい文言でしょうか。娘と出来立ての料理を囲んで明るい部屋で笑いあうという、誤解を恐れず言えば普通の家族の風景を望む母親の希望が、しかしながらそれを実現できない悔しさややりきれなさが、その両方が私たちに強く訴えかけてくるのです。そんな中で、少女は今日もひとりで夜ご飯を食べます。彼女は自分のことを悲劇のヒロインだと考えているんでしょうか。「普通の」家庭の幸せを享受できないことを、嘆いているんでしょうか。いえ、彼女もまた、忙しい母が作り置いていった晩ご飯の温かさを感じているはずです。それはきっと、電子レンジのせいだけではないです。
老婆については、言うまでもないと思います。長年連れ添った夫に先立たれながらも、その人と生きた年月というものを大切にし、食後にはきちんと二人分のお茶を入れる。彼女はおそらく、その行為によって夫を取り戻そうなどと考えているわけではないし、悲しみのあまり気がふれたわけでももちろんありません。そこにあるのは、一種惰性的ではありながら、それでもその人の「存在」を尊重しようという真摯な思いであり、深い愛情なのです。
では、これらはMVの本筋である女性の悲恋とどう関わってくるのか。一つの考え方として捉えていただければ幸いですが、このような仮説を提示したいと思います。


これらの年齢も立場も異なる三人の男女は、あの涙を止められない女性を応援しているのです。面識もないでしょうから突飛な話に聞こえるかもしれません。どこかに悲しみを抱えながらもそれぞれの幸せの形を受け入れ慈しんでいる三人の男女は、この女性ひとりをめがけて応援しているというわけではなくて、今悲しみのどん底にいる人たちを陰ながら励ましている。ぜひとも乗り越えてほしいですね。

 

ラストのサビでは、星空のもとギターを弾き語るジョーさんと一緒に、物語のラストを迎えます。